方向性摸索中。
Posted by ぽてとへっど=きはな - 2007.12.26,Wed
2007年も残すところあと一週間。
久々の更新は今年発売・発表された楽曲で個人的に気に入っている
「ハナマル☆センセイション」のレビューを書いてみる。
「ハナマル☆センセイション」のレビューを書いてみる。
東京の秋葉原にあって、大阪の日本橋に決定的に欠けているものはなにか。
ヨドバシカメラ?
ドンキホーテ?
@ホームカフェ?
武器屋?
サンボ?
ノンノンノン。
答えは歩行者天国と、路上ミュージシャンである。
秋葉原は休日、中央通りが歩行者天国になる。
このホコ天では、あちこちでミュージシャンのパフォーマンスが見られる。
現在ではヨドバシカメラ前のバスターミナルでも多くのパフォーマーが歌や演奏を披露し、休日にはドンキホーテの駐車場に簡易ステージが設置されパフォーマンスが行われているほどである。
こうした環境の中、アキバポップとでも呼ぶべき、独特の音楽ジャンルが形成された。
そして多く人気アキバアーティストが誕生している。
(歩行者天国がなく、ヨドバシ前バスターミナルのような路上演奏の場もなく、ミュージシャンがパフォーマンスを行いにくい日本橋では、このようなアーティストがほとんどいない)
そんなアキバアーティストたち。
オタク向けの個人アイドルだけではなく、結構イケてるロックバンド・ポップバンドもいるのだ。具体的には、夢色モンスター、GANG BANG PARTYなどが挙げられるだろうが、中でもアキバアーティストの旗手といえるのが、このLittle Nonである。(唯一メジャーデビューを果たしている)
そして、今秋発売された「ハナマル☆センセイション」はネットを中心に大きな話題を呼んだ。
この「ハナマル☆センセイション」がネットで話題を呼んだ理由は二つ。
一つ目は、某ロリコンアニメのED曲として使われたこと。このアニメに関しては観てない(見る気もおきねーよ。ってかこんなアニメ作るから、アニメ=キモイと世間から思われるんだよふあつく)ので、コメントは控えさしていただく。
問題は、二つ目である。下のニコニコ動画のリンク先の動画を見て欲しい。
そう、オフスプリングの「One Fine Day」という曲と酷似しているということで、「パクリ」としてネット上で壮絶に叩かれたのだ。(ジンのPVキメェなみに叩かれていた。このリトノン叩きは、先に挙げたロリコンアニメに対するアンチ感情によって増幅されていた感もある)
しかし、私は声を大にして言いたい。
この曲をパクリト揶揄する奴は、今後一切カルチャーを語るな!と。
これはアキバポップの進化の一つの形である。
そう、この曲には秋葉原を代表するバンド:リトルノンと、アメリカ合衆国オレンジカウンティを代表するバンド:オフスプリングの、夢の融合。そしてアキバポップが更なる高みを目指す上で必要な進化の過程なのである。
日本の文化は開国以降、先進国に追いつけ追い越せとして、常に新しいものを取り込んできた。
そんな日本において生まれた独特の文化的特徴として、文化的「寛容」の精神というものが挙げられる。
開国以後、日本文化は、あらゆる文化・精神の雑居を寛容してきた(終戦間際を除く)。
西洋的なものから、東洋的なものまで、時には根本的矛盾を抱え、対立する概念を持つものですら「寛容」の精神のもと雑居させ、そこから日本独特の新たな文化へと止揚させてきた。これは一神教であるキリスト教の西欧諸国にはできなかったものであり、我が国が他国に誇ることができるものだと私は考える。
このことは、現代の日本の衣食住を思い浮かべれば、簡単に理解してもらえるだろう。和服・藁葺瓦葺・日本食といった伝統と、欧米から流入してきた文化が統合していき、独特の文化を生み出している例がいくつも思い浮かぶだろう。そして、音楽もその独自の融合文化としての特徴をモロに持つものである。J-POPなどという単語が生まれた背景は、この独特の文化にあるといえよう。
このように、開国以降の日本は、流入してく新しい文化と、それまでにあった文化を融合させるという行為を繰り返すことで、文化的な発展を続けてきたのである。
前置きが長くなった。
ここまでの話の流れを踏まえれば、もうおわかりであろう。
この「ハナマル☆センセイション」は、アキバポップの進化のために、あえて秋葉原と対極にあるような音楽(ここではメロコアだね)を選び、融合しようとした結果なのである。
東京都千代田区秋葉原とアメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジカウンティ。
アキバポップとアメリカのメロコア。
一見対極にあるようなものの融合。
それはパクリではなく進化の道程。
それはパクリではなくアウフヘーベン(止揚)なのである。
激しくもキューティー。
かわいらしさとカッコよさ。
何度聞いても飽きないメロディ。
最高じゃないか。
どうして叩く必要がある?
叩くよりは、さらなるアキバポップの進化を叫ぼうじゃないか。
さぁリトルノン。
次はアキバポップをどの次元まで進化させてくれるのだろうか。
Wktkが止まらないよ!
P.S. ちなみにオレンジカウンティはディズニーランドのある都市なんだそうだ。夢の国秋葉原から生まれたバンドと、夢の国のある都市から生まれたバンドの融合、止揚と考えると、そこにある種の必然性を感じてしまうのは私だけであろうか。
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Posted by ぽてとへっど=きはな - 2007.07.27,Fri
久々の更新となる今回はAKB48について簡単な考察をしようと思う。
AKB48とは、「会いにいけるアイドル」というコンセプトで秋元康がプロデュースしたアイドルユニットであり、アキハバラを拠点に活動している。最新シングルがオリコンチャート初登場6位を記録したように、一部のファンからは熱狂的な支持を受けているようである。では、そのAKB48の持つ魅力とは何なのかを考察したい。
まず本題からは少しずれるが、AKB48が活動の拠点としている「アキハバラ」という街について、私自身の経験をもとに再考してみたい。
私自身大学進学に伴い上京した当初は、アキハバラを訪れる回数というのはそれほど多くなかった。年に数回程、中古CDショップを巡るために行くくらいであった。そんな状況がある時期を境に一変した。確か大学四年の冬あたりから急に足を運ぶ回数が多くなり、春の気配を感じる頃になるとほぼ毎週アキハバラを訪れていた。
しかし不思議なことだが、なぜそれほどまでアキハバラに足を運んだのかを考えてみると、ハッキリとした理由はなく、ただ漠然と行きたいという気持ちに誘われて行動していたのである。私自身は特にアニメが好きだとか、PCジャンクに興味があるといったわけでもなかった。それなのになぜ漠然とした理由でそれほどまでにアキバに足を運んでいたのか?
考えを廻らせて思い当たったのがアキハバラという街が持つ「虚構性」である。
森川嘉一郎は著書『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(2003幻冬舎)において、2000年代に入ってからのアキハバラという街を「個室空間の都市への延長」であり、「あたかも現実の街がインターネットにおける場所(サイト)の構成のされ方を模倣するかのように、趣味の構造が場所を形成した」と指摘している。現在のアキハバラに行けばすぐに気づくように、アニメ・ゲームのキャラクターのPOP/広告があらゆる場所に見受けられる。この都市空間へ趣味の露出は、まさに都市の個室化と言えるであろう。
私自身がこの趣都アキハバラに足を運び感じたことは、この趣味の構造が作り出した都市が持つ「虚構性」と「非社会性」であった。秋葉原駅から末広町駅までのいわゆるアキバと称される空間一体は、あたかもその外の街とは違った世界かと思わせるほど、構造も空気感も明らかに違ったものになっている。まさに別世界である。そこは社会的な現実性を感じさせない虚構性、非社会性をもっており、その空間にいる時間は、社会や社会的日常から解放されているかのような錯覚に陥ることができた。(私個人としてはこの感覚の構成要素として芳林公園の存在も大きいのではないかと考えている。公園という時間・年齢を忘れさせる存在が、趣味的構造の都市、個室化した街の中心に位置していることが、アキハバラという空間の虚構性、非社会性を増大させているように思われる)
以上のことを考えると、大学というモラトリアム期間を終え、社会人になり社会に組み込まれるという不安を何処かしら抱えていたであろう大学四年の冬という時期に、現実を忘れさせる虚構性、非社会性を持つアキバという空間に惹かれたのは決して偶然ではないであろう。アキハバラに足を運ぶ人間の多くは、私同様に、その空間の持つ虚構性、非社会性に魅力を感じている部分が少なからずあるのではないだろうか。
さて本題に戻ろう。これまで述べてきたように虚構の空間であるアキハバラという場所に存在する「会いにいけるアイドル」AKB48は、非常に興味深い構造を持つ存在である。確かにAKB48は「会いにいける」というコンセプトにより、偶像としてのアイドルではなく身近な存在としての魅力を打ち出している。しかし一方で、社会的現実を感じさせない虚構性の都市空間(アキハバラ)に存在するアイドルという、いわば虚構の中の偶像という性格を持っている。この後者の性格により、先に述べた「会いにいける」・身近な存在としての魅力は、アキハバラという虚構的空間でのみ(その空間に行くことによって)彼女達「会える」・身近に感じられるという構造によって、逆に彼女達の偶像としてのアイドルという性格を強化するものになっているのである。日常生活の営まれる現実空間とは違った空間に彼女達は存在し、彼女たちのファンは自らがその空間に行くことで身近に感じることができ、そこにリアルを感じることができる。AKB48はアキハバラという空間で活動することで、3次元的な魅力と2次元的な魅力を兼ね備える構造を持つアイドルとなっていると言える。これはアイドル旧来の魅力(偶像性)を、現代のアイドル的要素(身近な存在としての魅力)によって逆説的に強化するという、これまでに例を見ない、稀な構造を持つ非常に興味深いものである。また、その偶像崇拝の逆説的強化の強度の凄まじさは、彼女らのファンの熱狂振りを一目見れば明らかである(先日TBS「リンカーン」で取り上げられた異様な熱気が記憶に新しい)。
このAKB48という存在が持つ特殊な構造による魅力は、プロデューサーである秋元康の手によって、巧みに彼女らの楽曲に取り組まれている。そのことが顕著なのが、AKB48TeamK2nd公演の公演タイトルにもなっている「青春ガールズ」であろう。
「青春ガールズ」は、誰もが一度は経験した社会・社会的現実から離れており、どこか虚構性を持つ「青春」という時間を徹底的に賛美した歌詞を、耳障りのいい音楽にのせて、どう贔屓目に聞いても上手いとはとてもいえない歌声で、言ってみれば女子高の学芸会的なノリで、虚構の中の偶像としてのAKB48が歌うのである。
“大人になんかなりたくないよ いつまでもずっと
人生に縛られずに 自由でいたいよ
お金だったり 名誉だったり ウザイだけだよね?
みんなとここに いられるだけで なんてったって最高っす!
今を逃すんじゃねえ! 今をもっと生きるんだ!“
“大人になんかなりたくないよ このままがいい
人生は短いんだ 好きにさせろよ
学歴だったりだったり 職業だったり どうだっていいよね?
みんなと盛り上がれたら それだけで幸せさ
今を逃すんじゃねえ! 今をもっと生きるんだ!“
このようにサビにおいては、大人になる(社会に出る)と避けることのできない社会的な日常、つまり現実(リアル)としての日常や、さらにはお金や名誉、学歴といった社会的に価値がるとされているものを完全に拒絶する。そして“今”、つまり“青春”を徹底して賛美し、“青春”というどこかリアル(現実の社会)を感じさせない時間に閉じこもろうとすることを声高に叫ぶのである。さらに“みんな”と形容される聞き手は、彼女らとともにリアルから離れ“青春”という名の虚構にジョイントするよう誘われるのである。
彼女らの青春賛美は終盤の間奏に入ると違ったヒートアップを見せ、“青春”の永続性を訴える。子どもだって、おじさん・おばさんだって、おじいちゃん・おばあちゃんだって、何歳になっても青春は続くと叫び、“私ら死ぬまでずっと青春!”とのフレーズで曲は最高潮を迎える。それだけに留まらず、最終的には“「死んだら、どうなるんですか?」「それでも、青春は続くんだ」”と、“青春”は死してもなお続く永久不滅なものであるとし、その永続性を徹底的に強調した上で、再び前掲のサビに入り、聞き手を永遠の虚構として賛美される“青春”にいざなうのである。
以上のような「青春ガールズ」の内容は、前述のように虚構の空間であるアキハバラという場所において偶像として存在するAKB48が歌うことによって、奇妙な説得力と魅力を持つのである。
日常生活の営まれる現実空間・社会(リアル)とは離れた虚構的空間アキハバラ。そこにのみ存在するアイドル(偶像)である彼女達が、「永遠の虚構である“青春”」を賛美し、リアルな社会で日常生活を送り、リアルな価値に縛られている聞き手にこっち側(青春)においでと呼びかけるのである。その呼びかけは、アキハバラという空間においては、大きな説得力とリアルを持つもののように聞き手には感じられることだろう。聞き手は、アキハバラを訪れることで、彼女達の演じる青春という虚構(虚構の中で演じられる虚構)に自身もジョイントすることができるのである。
そう、虚構の街アキハバラでは、「何歳になっても続く“青春”」という虚構にリアルを感じることができるのである。アキハバラという場所で、AKB48という存在が歌うことで、この「青春ガールズ」は何ともいえない不思議な魅力で聴くものをひきつけるのである。
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